安倍昭恵のスマイルトーク

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2009年01月18日(日曜日) 09時54分

[カテゴリー:ウズベキスタン]

日本ウズベキスタン協会新年会

加藤先生(左)と嶌会長

加藤先生(左)と嶌会長

今年も日本ウズベキスタン協会の新年会に参加しました。
嶌信彦会長そして駐日ウズベキスタン大使のご挨拶に続き、トークショウ。
今回のゲストは国立民俗博物館名誉教授の加藤九祚(きゅうぞう)先生です。加藤先生は87歳。とてもそんなお年とは思えないほど、淀みない弁舌でご自身の経験等をお話になります。
満州で終戦を迎え、捕虜としてシベリアに抑留され約5年間。
ほとんどの人が絶望感に打ちひしがれている中、先生はせっかくだからロシア語を身につけようと決心されたそうです。寒さと重労働の中、勉強しようと考える意思の強さ・・・。そして続けていく根気・・・。本当にすごいと思います。
何とか手に入れた教科書を必死で覚え、1年後にはかなり話せるようになると、スパイではないかと疑われることもあったとか。
そして無事帰国し上智大学に復学します。既に学生としては若くありませんでしたが、5年間留学をし、フィールドワークをしてきたと思うことにしたそうです。
フィールド調査をしてきたのだから、シベリアについて少しはものが言える・・・という発想。正にポジティブシンキングです。
その後、平凡社に就職してからもシベリア研究、ユーラシア研究は続きます。
60歳を過ぎてからは本格的に考古学の研究を始められ、今も仏教遺跡の発掘調査の為、年に3ヶ月はウズベキスタンに滞在。
まだまだ現役で、夢が広がっている先生にみんな元気づけられました。
どんな時も前向きで、明るく、謙虚に生きていくことが大切・・・。
改めて加藤先生から学んだひと時でした。

司馬遼太郎は著書「菜の花の沖」の中で「加藤氏はシベリア抑留時代、生命をしぼりとられるような労働の中で、シベリアを観察し少数民族の生活を凝視し、田舎風のロシア語をみごとに独習した。むろんその後にシベリアを中心とする文化人類学を自分の中に拓こうという野望があったわけでなく、18世紀にイルクーツクに住んでいたラクスマンが、むしょうに学問への情熱と人間と地上のすべてに愛情をもっていたように、20世紀の加藤氏もそうであっただけである。」
と書いています。



ウズベキスタン・レインゴールドグリエール音楽院の生徒さんと校長

ウズベキスタン・レインゴールドグリエール音楽院の生徒さんと校長

君は、はるばる日本からやってきて、スルハン・ダリヤ地方の古いダルヴェルジン・テパやカラ・テパで考古学的発掘に従事している加藤九祚氏について聞いたことがあるかもしれない。彼の犠牲的精神に富む、広範な知識は、われわれの歴史全体や古代の遺跡を含むのみならず、文化的・精神的遺産に関しても深い理解を示している。加えてこれらの事物を外国の人びとに伝えることに大きく貢献し、また、ウズベキスタンと日本両国の学問的関係を発展させることにおいても実り多い成果をあげたことにより、ウズベキスタン共和国大統領令に基づいて「友好」勲章をさずけられた。
そもそも、齢80をこえるこの人物に故郷を捨てさせ、冬の風雪、夏の炎暑、春秋の降雨や悪天候に晒されつつ、荒野に住まわせ、その手にクワを持たせて、古代の遺跡を少しずつ掘り進め研究させている力はいったい何なのだろう?それは、われわれの偉大な遺跡に対する興味、そしてウズベクと日本両民族の歴史と生活における普遍的な観念を学ぼうとする熱意ではないだろうか。
加藤九祚氏のように遠い故郷からやってきて、ウズベクの田舎で学問的探求に携わっている学者は稀ではないだろうか?この人物は、われわれの国や人びとを心から愛しており、われわれの母国語を自由に話すことができ、、われわれの歴史についてどんな人とも議論をたたかわせるだけの知識があり、そしてわれわれの国を高く評価し、尊重している。ウズベクの人びともまた、彼を敬愛するがゆえに「ドムラ(先生)とよんでいるのだ。


ウズベキスタンの小学校6年生用公民の教科書に掲載されている文章です。加藤先生はウズベキスタンで高く評価され、考古学の分野に留まらず2国間の友好関係に大きく寄与されておられます。
日本人のひとりとして誇りに思い感謝申し上げます。
どうぞ益々お元気でご活躍下さい。

この記事、終わり。

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2008年02月22日(金曜日) 08時42分

[カテゴリー:ウズベキスタン]

トークの会

マリア(右)と幹事のムニサ

マリア(右)と幹事のムニサ

日本ウズベキスタン協会が月に一度開催しているトークの会に久しぶりに出席しました。この会はウズベキスタンをはじめ各国からの留学生に話を聞くという会です。今回はウズベキスタンのマリアが話をしに来てくれました。彼女はかつて福岡の大学で研究していた井上靖の「西域物語」を引用しながら井上靖のウズベキスタンの見方、歴史観等を流暢な日本語でわかり易く説明。最近の若い日本人は井上靖を読んでいないという言葉は、若くない私も耳が痛かったです。

いつもこの会に出席して感心するのは、若い留学生が自国の事を良く知っていて、あらゆる分野のややこしい質問にも平然と答えているということ。勿論優秀な学生達であることは間違いないのですが、日本人ももっと日本のことを勉強しなくてはいけないと改めて感じさせてくれる会でもあります。会の後はみんなで中華料理を食べながら、少し砕けたトークが始まります。楽しい会ですので興味のある方は日本ウズベキスタン協会にお問い合わせ下さい。

この記事、終わり。

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2008年01月13日(日曜日) 09時20分

[カテゴリー:ウズベキスタン]

ウズベキスタン

コシノジュンコさんファッションのお話

コシノジュンコさんファッションのお話

日本ウズベキスタン協会の新年会に行きました。2002年に当時の中山恭子大使(現参議院議員)をお尋ねして全く未知の国であったウズベキスタンに行って以来、私はすっかりこの国が好きになりました。独立してわずか10年ほどの若い国は決して裕福ではありませんでしたが、夢と希望と若い活気にあふれているように見えました。熱心に日本語を勉強する多くの学生達。みんな日本人を尊敬し日本に憧れています。いつか日本に行きたい・・・熱く語る彼らの話を聞きながら、今の日本は期待はずれかもしれない・・・そんなことを思ったものでした。サマルカンドでガイドをしてくれたニルファルという女の子は当時まだ大学2年生。その後憧れの日本にやってきて今はウズベキスタン人のご主人と赤ちゃんと生活しながら大学院で勉強しています。夢に見た日本と現実の日本・・・。むしろ日本人が、優秀で勤勉な彼らから学ぶことが多くあると思います。

永田行夫さん

永田行夫さん

ウズベキスタンの首都タシケントにはナボイ劇場という有名な劇場があります。これは戦後日本人抑留者によって建てられたもの。1960年代にあった地震でほとんどの建物が倒壊する中、このナボイ劇場はびくともしなかったそうです。そして日本人の真面目さ、勤勉さ、技術力が改めて評価されることになりました。劇場建設の指揮をとられたのがウズベキスタン協会会員のお一人でもある永田行夫さん。新年会にもご出席でした。当時24歳という若さ。日本に帰れると思っていたら連れていかれた見知らぬ土地での捕虜生活。どん底の絶望感の中で敵国のためになんでそこまで熱心に働くことができたのか・・・。改めてナボイ劇場建設の記録を読んでいると、いくつかの理由があげられた後「このような理由で本記録は最も恵まれた環境下の収容所のもので、より過酷な条件のもとで苦労された多くの抑留者の方から見れば奇異に感じられる点も多い事と思われます。これらの方々の体験された辛酸に比べれば環境と仕事の性質に恵まれた事は幸運という外ありません。」と書かれています。充分に過酷な環境であったということは容易に想像がつきますが、それでも他と比べれは恵まれて幸運であったと言える強さ・・・ウズベキスタンでなぜこんなに日本人が尊敬されるか少しわかったような気がします。
人と比較して足りないところばかりに目がいく現代の私たちこそ永田さんのような日本人を尊敬しそこから学ぶ努力が必要なのではないかと思いました。

ウズベキスタンの留学生たち

ウズベキスタンの留学生たち

この記事、終わり。

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プロフィール

安倍 昭恵

安倍 昭恵

元総理大臣「安倍晋三」の妻。1987年、職場の上司の紹介で安倍晋太郎元外相(故人)の秘書を務めていた安倍晋三と結婚。

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