安倍昭恵のスマイルトーク

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2008年07月15日(火曜日) 22時43分

[カテゴリー:アジア]

CLMV若手リーダー招聘

12名の参加者の方達

12名の参加者の方達

財団法人貿易研修センター主催「第2回CLMV若手リーダー招聘」の歓迎レセプションに出席しました。これはCカンボジア、Lラオス、Mミャンマー、Vベトナムの4カ国との経済交流促進のための研修プログラムです。エネルギー関連省庁等の若手リーダー達が来日し19日までの5日間資源エネルギー庁との意見交換、東京電力横浜火力発電所、トヨタ自動車工場、三菱電機、廃食用燃料化施設等々を見学。
日本から吸収できることは大いに学び、日本に良い印象を持って帰って頂きたいと思います。

この記事、終わり。

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2008年06月27日(金曜日) 22時44分

[カテゴリー:アジア]

タイ

バンコクでは泰日工業大学を訪問しました。この大学の母体は泰日経済技術振興協会(Technology Promotion Association 略称:TPA)。TPAは日本で勉強したことのある人達が中心になって開設された30年以上もの歴史ある組織です。技術、経営に関するセミナーは年に約1300件、4万人にも上る方が参加され、その他にも語学研修、コンサルティング等様々な事業を行っています。
TPOの念願だったこの大学が設立されたのは昨年。校舎の入り口には主人が書いた泰日工業大学の文字が掲げられています。その前で理事長、学長等のお出迎えを受け、学内を案内して頂きました。各階ごとに2人の学生達が日本語で説明。まだ2年生ということでしたが、その流暢な日本語にびっくりしました。今後日本とタイの架け橋となるような優秀な社会人がこの大学からたくさん輩出されることを期待したいと思います。温かい歓迎をして頂きありがとうございました。

バンコクから車で約2時間半、静かで歴史的な町ロップリー。ここにワット・プラバートナンプというエイズ患者のためのホスピスはあります。たくさんの小さな家が建っている道を上がっていくと博物館、そして火葬場。博物館の中にはこの施設で亡くなった方々のミイラが展示してあります。沿道の家々は患者さんが家族と一緒に暮らすための場所だそうです。
施設長のお話を伺った後、職員の女性の案内で施設内を見学しました。起き上がることもできないほど弱っている人、まだ入ったばかりで病気とは思えないほど元気な人・・・お話を聞いたり、一緒に写真を撮ったり、笑ったり・・・この人たちのために私ができることはわずかな寄付しかありませんでしたが、これ以上HIV感染者を増やさないために、私達ができることはあるはずだと思います。

今までここで亡くなられた方は1万人以上。最初のうちは記録もなかったので正確な数字はわからないとのことでした。お骨はすべて布の袋に入れて積み上げられています。ほとんどの遺骨は引き取り手がないまま、また上に次の袋が乗せられ・・・。その袋の山を前に私は言葉が出ませんでした・・・。ご冥福をお祈りいたします。

この記事、終わり。

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2008年06月25日(水曜日) 23時23分

[カテゴリー:アジア]

タイ

戦争博物館

戦争博物館

カンボジアからバンコクに戻り次の日の飛行機でチェンマイ経由メーホンソンに向かいます。今回の旅の最大の目的はメーホンソンにある第二次世界大戦博物館。数ヶ月前、産経新聞の将口泰浩氏が書かれた「未帰還兵(かえらざるひと)」を読み、私はその博物館の存在を知りました。そして日本兵が残していったというお守りがぎっしり並んでいる写真に衝撃を受け、どうしても自分の目で見てみたいと思ったのです。

メーホンソンの空港から曲がりくねった山道を走ること1時間。クンユアムという小さな村。ここに戦争博物館はあります。自然に囲まれた静かなこの村は、ここで7千人もの日本兵が亡くなっていったことなど想像すらできないほど穏やかな空気に包まれていました。日本人が今年植えたという細い桜の木々の横には「戦友よ安らかに眠れ」と書かれた慰霊碑。お線香を上げ、英霊に心を合わせます。

この博物館に陳列されている物は日本兵が残していった軍服、コート、毛布、水筒、ヘルメット、飯盒、武器、生活用品等等・・・です。それらはビルマ戦線から生き延びてこの村にたどり着いた兵士達の物。食べ物との物々交換やお世話になったお礼にと自分が身に着けていた物を置いていったそうです。村の人たちが大切に思い出の品として取っておいてくれた物・・・。それを一箇所に集めて博物館にしようと思ったのはクンユアム警察署のチェーチャイ署長でした。戦争博物館というと日本軍の残虐さを強調するものを連想しますが、ここは全く逆。村の人たちと日本兵との温かい関係を今後もっと多くの人に知ってもらいたいと思います。

バーンさん

バーンさん

戦争前から、自宅に日本兵が下宿していたというバーン・タワットさん87歳、そして戦後脱走兵だった日本人、フクダと結婚したキアオ・ジャンタシーマさん85歳、二人のおばあさんを訪ねました。キアオさんはフクダとの間に二人の男の子を授かりますが、間もなくフクダは脱走兵として警察に逮捕され、その数ヵ月後に病気で亡くなります。二人が一緒に生活できたのはわずか数年。言葉も十分には通じ合えなかったはずですが、キアオさんは夫の事を語りながら、何度も涙し、言葉を詰まらせていました。
「来世もフクダと一緒になりたい・・・。」
そんなに愛されたフクダさんにとってはきっと幸せな数年間だったことでしょう。
「未帰還兵」の中でキアオさんの次男は「私は日本兵の子です。私の誇りです。」と話しています。しかし母親思いのその次男は事故で亡くなられたとのことでした。親戚からも見放され、苦労してひとりで育ててきた息子。その息子にも先立たれてしまいました・・・。
「来世はきっとフクダさんと幸せになれますよ。日本で出会うかもしれませんね。」という私の言葉に「日本には行きたくない。」と答えていたキアオさん。既にフクダの魂といつも一緒にいるのかもしれない・・・と思いました。



キアオさん

キアオさん

来た時と同じ道を空港まで1時間。博物館を見たり、おばあさんたちの話を聞いた後は同じ景色が違って見えます。車で走っても大変な山道を、荷物を背負い、食べる物もなく、怪我をしたり、病気になったりしながらも歩き続けた兵士達。彼らの苦しみ、辛さ・・・その中で輝いていたであろうタイの人たちの優しさ、温かさ・・・戦争の悲惨さと極限状況だからこそ生まれる絆や愛情、人間味・・・私の心の中は正解のない質問が渦巻いていました。

この記事、終わり。

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2008年06月24日(火曜日) 17時21分

[カテゴリー:アジア]

地雷処理

曽野綾子先生がカンボジアの「日本地雷処理を支援する会(JMAS)」の活動を見に行かれるということで私も連れて行って頂きました。バンコクから車で約4時間半。ようやく着いた国境に出迎えて下さったJMASの高山良二主任、高田善之副主任、現地スタッフの人達。制服についた胸の日の丸が輝いています。
国境を渡り車を乗り換えると道は一変、舗装していないガタガタ道です。たった一本の川を隔ててこんなにも景色が変るということ、これが国が違うということなのだと実感。新鮮な驚きでした・・・。

発見された地雷

発見された地雷

訪ねた所はカンボジアのバッタンバン州カムリエン郡タサエン・コミューン。4つの村からなる人口5000人弱の地区です。JMASはここで、カンボジア全土に500万ともいわれる内戦で埋められた地雷を、ひとつひとつ処理する作業を続けています。私達は実際に活動している現場を見学させて頂きました。二人一組でひとりが少しづつ草を刈り、刈った部分をもうひとりが金属探知機で地雷の反応を見ていきます。作業中のデマイナー(地雷処理要員)達の顔は真剣そのもの・・・作業が終わるとあどけない笑顔に戻ります。地雷犠牲者の家族や特に貧しい人を優先的にデマイナーに採用しているとのこと。しかし収入源というだけでなく、これ以上犠牲者が出ないように、自分達の手で安全な地域を作っていきたいという若者達の未来への夢を感じました。

デマイナーの女性達と

デマイナーの女性達と


一日の仕事を終えてこれから帰ります

一日の仕事を終えてこれから帰ります

高山さんと一緒に私も俄か先生

高山さんと一緒に私も俄か先生

高山主任と高田副主任は毎日夕方5時から約1時間、近所の小学校を借りて子ども達に日本語を教えています。私も2日間参加させて頂きました。まだ4月から始めたばかりということでしたが、みんな日本語を勉強するのが楽しくてしょうがない様子。次々と「あなたの名前は何ですか?」「あなたはどこから来ましたか?」「あなたは何才ですか?」と質問してきます。私の名前も覚えてくれました!
高山さんはまるでみんなのお父さんのよう。たまたま縁があったこの地域の将来をしっかりと見据え、愛情を持ってすべてのことに取り組んでおられる姿に感動しました。

子ども達はみんな一生懸命

子ども達はみんな一生懸命

みんなに名前を覚えてもらいました

みんなに名前を覚えてもらいました


小学校の隣に住んでいる子ども達

小学校の隣に住んでいる子ども達

タイとの国境

タイとの国境

宿舎の隣の女の子

宿舎の隣の女の子

実物の地雷を前に説明をする高山主任(右)と高田副主任(左)

実物の地雷を前に説明をする高山主任(右)と高田副主任(左)

昨年1月には悲しい事故が起こりました。今までにない金属反応が出たために、小隊長はじめデマイナー達が集まって検証していたところ地雷が爆発して7名が命を落とされたのです。その時高山主任は帰国するため、空港におられました。事故の知らせを聞きあわてて現場に駆けつけ、それから2日間は7名の遺体を探し続けられたそうです。一周忌には慰霊碑が建てられ、7名の写真とお骨の一部も安置されています。その写真を見ながら、ひとりひとりのことを説明された後、「すべて私の責任です」と言われていた高山さんの言葉を私は忘れることができません。どんなにか無念だったかと思うと胸が締め付けられる思いでした。
その後、食事の席での「順調にいっているときこそ気をつけなくてはいけなった」「ここに来て自分の弱さを思い知った」という言葉の中には本当にしなやかな強さを感じました。
今後ひとりの犠牲者も出ないことをお祈りします。

亡くなった方の慰霊碑

亡くなった方の慰霊碑

慰霊碑の中には写真とお骨が・・

慰霊碑の中には写真とお骨が・・


夕食。高山さんたちのために曽野先生は日本からしゃけやたらこ、日本のお米を持ってこられました。

夕食。高山さんたちのために曽野先生は日本からしゃけやたらこ、日本のお米を持ってこられました。

台所

台所

お借りした高田さんが普段使っている部屋

お借りした高田さんが普段使っている部屋

今回私達はJMASの宿舎に泊めて頂きました。たった2泊ではありましたが、お湯も出ない、シャワーもない、蚊帳の中で寝るという普段なかなかできない体験。
ひとりで村の中を歩いていると、みんなが「こんにちわ!」と声をかけてきます。なついてくる子ども達の目の輝き、簡素な今にも倒れそうな家でありながらも案内してくれる女の子。
日本にいては感じられないことをたくさん感じることができたカンボジア。そして日本人としての誇りを持つことができた2日間でもありました。是非また行きたいと思います。
大変お世話になりありがとうございました。

トイレ(左)、右のお風呂のような所に溜まっている水を洗面器で汲んで顔や体、髪の毛を洗います。

トイレ(左)、右のお風呂のような所に溜まっている水を洗面器で汲んで顔や体、髪の毛を洗います。

宿舎の外観

宿舎の外観

通訳のミエン

通訳のミエン

通訳のバーン

通訳のバーン

ドライバーの子どものさくらちゃん、名付け親は高山さん

ドライバーの子どものさくらちゃん、名付け親は高山さん


この記事、終わり。

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2008年04月22日(火曜日) 00時55分

[カテゴリー:アジア]

インド

チットルガーの広場

チットルガーの広場

インドに行きました。3回目のインド。今回はラジャスタン州のいくつかの都市を回りましたが特に印象に残ったのはプシュカールとウダイプール。その歴史と信仰心に圧倒され、街を歩けば雑踏の中で逞しく生活している人々と動物達にまた圧倒され・・・。
ウダイプールにある広大な要塞都市であったチットルガー。遥か先まで見渡せるダイナミックな景色を眺めながらラジプート族の悲劇に想いを馳せていました。敵からの攻撃を受け、負けを知ったお妃は捕らわれて生きるより自ら死ぬことを選び焼身自殺したそうです。そしてその同じ火の中に次々と約3万人の女性達が飛び込んでいったとのこと。戦場で戦っている男達の勇気の影にある女達の誇り高さと悲哀・・・。その場所は大きな木の陰に人や牛が休む穏やかな広場となっていました。


街中どこにでも牛はいます

街中どこにでも牛はいます

プシュカールの聖なる湖

プシュカールの聖なる湖

子ども達はどこでも人なつっこく近づいてきます。お菓子をねだったり写真を撮ってほしいと言って後をついてくる子ども達。しかしかわいいばかりではありません。必死になって車の後を走って追いかけてきては何度も何度も窓ガラスを叩いてお金をほしがっていた女の子。自分の描いた絵を買ってもらおうと天使のような笑顔でその絵を見せてくれたものの、こちらが買わないとわかると形相を変えて悪態をついていた女の子。その子はその後、絵を買ってあげると再び満面の笑みをたたえて私たちの車を見送ってくれました。懸命に生きている子ども達・・・。頑張って生きていってほしい・・・。


各地で撮った写真に白い玉のようなものがたくさん写っていました。これは精霊なのか、あるいは水滴や埃のような物なのか・・・。やはりインドは神秘的な所です。機会があれば次は南インドに行ってみたいと思っています。

この記事、終わり。

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プロフィール

安倍 昭恵

安倍 昭恵

元総理大臣「安倍晋三」の妻。1987年、職場の上司の紹介で安倍晋太郎元外相(故人)の秘書を務めていた安倍晋三と結婚。

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